ОГУРЕЦ

キュウリ美味しいね。

4代目相棒・冠城亘の卒業に際して思うこと

『相棒』シリーズ4代目相棒・冠城亘(反町隆史)が今シーズンで卒業というニュースがファン内外の間で話題になっている。
 私は以前から書いている通り、『相棒』シリーズのそこそこ長いファンなのだが、一視聴者としてこのニュースについては色々思うことがあり、感情のおもむくままにこうやって文章を綴っている。よっていつも以上にまとまりもなく酷い文章かもしれないし、あとで読み返したときには気が変わっている可能性も十分あるので、その場合はこの投稿自体を削除するかもしれないが悪しからず。もっともこんなの残しておいてほしいなんて人もそうそういないだろうが。

 本題に入るが、まず冠城亘卒業そのものについては、私は特に否定的な立場ではない。勿論season13ダークナイトショックを受けて今後の展開に不安も大きい中で始まったseason14から現在のseason20まで7年間という長い(ようで短かったが)年月を共に走ってきて、愛着のある冠城亘というキャラクターとサヨナラすることに寂しさはある。しかしながら、亀山くん、神戸くん、そしてカイトくんとの別れにも我々は立ち会ってきたわけだし(正確には私が相棒をリアルタイムで視聴し始めたのはseason8からなので、亀山くんの卒業には私は立ち会っていないのだが)、相棒を就任した時点でいずれ別れのときが来ることは私を含め相棒ファンは承知の上だろう。

 卒業そのものは良いとして、気になるのは冠城くんの「卒業の仕方」だ。巷間囁かれている「殉職説」は、インパクトや斬新さを求めるには良いかもしれないが、長年彼を愛してきたファンにとってはなかなか受入れ難いだろう。歴代相棒の卒業理由が退職、異動(?)、逮捕と来ており、先代相棒のカイトくんも正月SPかどこかで犯人に撃たれて殉職する展開も考えられていた……というような話も聞くし、あり得なくはないのが怖い。
 個人的には仮に殉職でも、冠城亘という人間が最大限リスペクトされた形であれば――当然ショックは受けるが――何とか受け入れられるかもしれない。しかし、それでもやはり冠城くんには幸せに特命係を去ってほしいし、なんなら今の神戸くんのように今後も時々登場してほしい。

 そして、私の(恐らく多くの相棒ファンも)一番の気がかりは次期相棒についてである。
 この冠城亘卒業のニュースが出てからすぐ、次期相棒は誰が良いというようなコメントをしている人も多く見かける。正直なところ、私は誰が良いとかそういうことはまだ考えられないのだが、「この人は嫌だ」というのはあるので、万が一その嫌な人になってしまったらどうしようという不安が非常に大きい。

 ※ここから先は、特に私の個人的な好みの問題なので、私と異なる意見の人を批判・否定するつもりはないので悪しからず。
 毎回相棒交代が話題になる度に、「時期相棒は女性が良い」という意見もちらほら見かけるが、私はこれには反対だ。警察関係者には準(?)レギュラーの社美彌子や昨シーズンから登場した出雲麗音など魅力的な女性キャラクターが既に居て、私も彼女たちのことが大好きだが、右京さんの相棒というポジションに女性が入るのは「なんか違う」感がある。
 言葉で説明するのは難しいのだが、日本のドラマにおいてW主人公が男女の場合、やたらとその二人の関係を「恋愛(はっきりした恋愛感情でなくても、相手と良い感じの同性に嫉妬する描写等も含む)」に持っていきたがる傾向があるのが不安材料の一つだ。相棒のスタッフに限って今更そんなことはしないと信じたいが、右京さんと女性相棒との恋愛回なんて見たくない……相手が右京さんでなくても、とかく日本のドラマは女性主人公が出てくると何かと恋愛的な描写を入れたがるので、私はそういう展開があまり好きではなく、そういう作品はそういうものとして否定はしないが、わざわざ『相棒』でやらんでもええやろと思ってしまいそうだ。

 逆に言うと、そういう展開や描写がなければ女性相棒もアリかもしれない。例えば今現在捜査一課の出雲麗音のキャラクター描写のされ方はとても良いと思うし、もし仮に彼女がそのまま相棒になるとしても私は結構好ましく感じる。だがそれも一時期の芹沢のように1回だけなら面白いかもしれないが、何年間もとなると話が変わってくるだろう。それに麗音さんはやはり捜査一課で活躍する姿を見ていたいし、そもそも「相棒」になる資格の一つとも言える「か で始まり る で終わる名前」ではないので現実味はない。
 「か で始まり る で終わる名前」は継続する前提なら、やはり今までと同様に新キャラクターが登場する可能性が高いが、女性の新キャラクターが特命係にやってくるとして、例えば天海祐希のような強く美しくカッコいい女性刑事が右京さんとゴリゴリ戦いながら段々「相棒」になっていく、とかはちょっと見たい気もする……が、やっぱりこれまでの『相棒』とは雰囲気が変わりすぎて、コレジャナイ感はあるかもしれない。

 また、これもないとは思うが「とりあえず今が旬の人気若手俳優をキャスティングしてみました!」という感じもやめてほしい。単発ドラマならともかく、20年もの間愛されている『相棒』シリーズで、今さら客寄せのためにそんなことをしないでほしいという気持ちが強い。
 とはいえ、甲斐亨役として成宮寛貴が新相棒として発表された時には、「若者人気を得ようとして人気のイケメンを起用したのか」と正直言ってあんまり良い気はしていなかったものの、結果意外にも(と言ったら失礼だが)成宮寛貴のカイトくんが良くて手のひら返しをしたこともあるので、たとえ若手俳優でもきちんと『相棒』シリーズを愛してリスペクトしている人であれば気にならないかもしれない。

 なんだかんだ言って、神戸くんも、カイトくんも、そして冠城くんも私にとっては納得のいくキャスティングで愛すべき「相棒」だったので、きっと次期相棒も素敵な方が就任してくれるはず……と信じるしかない。
 が、それはそれとして やっぱり不安には違いないし、それならいっそ冠城くんの卒業と同時にseason20というキリの良いところで、『相棒』シリーズそのものが完結しても良いなどとも思ってしまう。歴代の相棒も総出演で右京さんのピンチを救うなどしてくれたら最高だ。いつかは必ず終わるのならば、美しい形で幕を閉じてほしいものである。

オーロラネイルに火を灯せ

 私は多分ケチである。他人から直接そう言われたわけではないし、意識して節約生活をしているつもりもないのだが、周りと比べるとケチケチした性格だなとは思う。
 例えば、ペットボトル飲料やアイス等のお菓子は絶対にコンビニでは買わない。どうしても食べたい・飲みたいコンビニオリジナル商品でもない限り、スーパーで買った方が絶対に安い。たかが数円~数十円の差だが、緊急事態でもないのにみすみすお金を取られるのは嫌なのだ。

 また学生時代、大学最寄り駅から電車で3駅ほどのところで塾講師のバイトをしていたときは、毎回金券ショップで切符を購入し、バイト先には正規の交通費を請求して1回につき10円ほど浮かせていたが、当時はお金のない学生だからというわけでなく、社会人になった今でも金券ショップには相変わらずお世話になっている。
 バイトをしていた当時は同級生にこの話をすると「毎回切符買いに行くくらいなら(金券ショップの多くは当日利用限定の切符を扱っているため買いだめはできない)もう1コマバイト入れた方が稼げるじゃん」と言われたが、そういうことではない。私がもう1コマ働いて入ってくるお金は普通の対価なのだから、なんのプラスにもならないではないか。

 そしてお金をみすみす無駄にしてしまった時のショックも非常に大きい。
 代表的なのは自動車教習所に通っていた時のことだが、路上講習の予約を10時から入っていたのを11時からだと勘違いして遅刻してしまい、当日キャンセル料1000円程度を取られたことは未だに許せない。キャンセルの理由が「面倒だからすっぽかした」など自分の意志であればまだ良かったが、原因が勘違いだし、しかも1時間後には行くつもりで準備もしていたのだから余計にモヤモヤする。どう考えても私が悪いし、キャンセル料だってさほど高いわけでもない。しかし自分のしょうもないミスで本来不要な出費をしたという事実が許せないのだ。未だにこれを書いていてやりようのない気持ちになっている。

 先日、芸人かまいたちの濱家さんが自身のYouTubeで公開していた「無駄遣い先生」という動画を観たのだが、「まさにこれだ!」とひどく共感した。


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 しかし、私は濱家さんのように貧乏育ちでお金のない中、少ないながらも貴重なお金を無駄にしてしまったが故の悔しさ……というわけではない。私の実家は決して資産家というわけではないが、世間一般的に見て裕福な方だったと思うし、幼少期から欲しいものは両親に言えば買ってもらえる環境で育ってきた——もっとも、思い返せばそもそも子供の頃からあまり物欲がなく、親に言って買ってもらったものも せいぜい数百円~数千円の文房具や本、一時期ハマっていた手芸の道具くらいだ。流行りのゲームやおもちゃなどには大して興味がなく、一人で黙々と趣味に没頭する人間だったので、我ながら安上がりな子供である。(塾や習い事には複数通っていたので、そういう面では随分お金をかけてもらっていたが)

 またリアルマネーに限らず、例えばゲームにおける「数に限りのあるHP回復アイテム」や「一度使うと次に使えるまで数ターン待たなければならない技」なども、タイミングを間違えて無駄にするのが怖くて出し渋ってしまう。間違えたところで自分自身には何の影響もないのに。こういう人間だからゲームを純粋に楽しめず、娯楽のはずなのに緊張し疲れてしまうため今もさほどゲームが好きではないのかもしれない。
 他にも、食べ物を残すのもかなり抵抗があるし、一人暮らしをしている今はお風呂のお湯も自分一人が入っただけなのにそのまま流してしまうのは勿体ないと感じて毎回ベランダの掃除に使っているし、晴れているのに洗濯物を干せないのは勿体ないが、下着や靴下、タオル数枚のために洗濯機を回すのはもっと勿体ない!と、毎日お風呂でウタマロ石鹸で手洗いしている。

 こう書くと環境に良い活動をしているように見えるし、過去に知人にこの話をして「丁寧な暮らしっぽい」と言われたことがあるが、どちらかというと「貧乏な暮らし」である。「丁寧な暮らし」が具体的にどういうものなのかは未だに分かっていないが、いずれにせよ多分違う。

 こんな感じで「何かを無駄にする」ことに強い恐怖心(と言うと大げさかもしれないが)を持っており、余計なものは買わないようにしているので、結果的に節約にはなっているし貯金もそれなりにある方だとは思う。そのためしっかりしていると褒められたり、節約術紹介のようなことをしたら需要があるんじゃないかなどと言ってもらえたりもするのだが、残念ながら私は「物欲が少ない上に小心者」なだけなので、浪費癖がある人やそうでなくてもお金を使うことに抵抗のない人が節約するための参考にはまるでならない。また、たかだか数百円のLINEスタンプを買うにも「使わなかったらどうしよう……」などと悩み、結局本当に使わなかったときの後悔が人一倍強いので精神衛生上よろしくなく、人様におすすめできるようなものでもないのだ。

 余談だが、LINEスタンプや電子書籍などの「手に取れるモノでもなく、失敗したと思っても捨てられないもの」にお金を使うのが一番怖い。手に取れるモノ——例えば電子ではなく紙の本であればブックオフ等に売ってわずかでもお金を取り返せるという面もあるが、それ以上に「捨ててしまえばなかったことになる」からである。何を言っているか分からないと思うし、自分でも上手く言葉にできないが、誤って(=無駄に)買ったモノが手元にあるのは自分がお金を無駄にしたという事実を常に突きつけられているいるようで、かなりのストレスを感じるのだ。
 しかしこの感覚は意外と分かる人もいるのか、かまいたち山内さんも「無駄遣い先生」の動画で「騙されて買った偽ブランド品を見るのも嫌で納屋の奥に押し込んだ」と言っていた。私は山内さんほど高額な無駄遣いをしたわけではないし、偽物を掴まされたわけでもないのだが、気持ちはよく分かる。というか私、大してファンでもない割に かまいたちYouTubeチャンネル観すぎでは?


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 貧乏育ちでもないのにここまで貧乏性というか、お金を使うことに恐怖心を抱いているのは何か強迫性障害の一種では?などと思い調べてみたのだが、実際に「節約強迫症」の特徴をテキトーに調べてみると、幾つか当てはまるものはあるものの、「旅行のお土産を買うのは無駄に感じる」「病気になってもできるだけ病院には行かない」など、さすがにそれはないなと感じる項目も多かったので、まだ「人よりちょっとお金にうるさい」くらいなのかもしれない。

 またここまでケチケチ チマチマしている私だが、この1年ほどは2~3週間に一度ネイルサロンに通っている。1回につき安くても5,000円、平均して1回1万円前後はかかるので、本当の節約家ならこれこそまず一番に削るべき出費だろう。さほど節約家でなくても普段ネイルをしない人ならば、定期的にネイルサロンに通うなんて贅沢・金遣いが荒いと思っても無理はない。
 しかし、今の私にとってのネイルはQOLを上げるためのものであり、いくら仕事で面倒な上司や取引先に文句やセクハラまがいなことを言われて精神がすり減っても「今日も私の爪は美しい……!」とギリギリなんとかプラスの気持ちを保てる栄養剤なのだから、これはもう実質医療費である。
 きっと世の中の、美味しい食べ物や旅行、服、推しへのお布施等々贅沢をしているように見える人の中にも、私のように「実質医療費」を支払って日々を耐え抜いている人々がたくさんいるのだろう。
 そんなこんなで、私は今日もキラキラと輝く爪に火を灯すような生活をしている。

古畑任三郎 各話紹介(第1シーズン)

 もう先月の話になるが、田村正和さんの訃報は日本中に大きな衝撃を与えた。田村正和さんと言えば『古畑任三郎』だが、以前から書いている通り私は同作品の大ファンで、完結済みドラマの中で人生で一番好きな作品だ。ありがたいことに、知人の中にはニュースを見て私を気にかけてくれた人もいた。

 こんなニュースがなくても、このブログを始めた当初からいつかは書こうと思って半分くらいは下書きに保存していたものの、うだうだしているうちに公開するタイミングを逃していたのが、この度田村さん追悼記念として『古畑任三郎』の再放送もされて、新たに興味を持つ人も多いのではないかと思い、第1シーズンの1話から全話紹介をしていきたいと思う。

 第1シーズンの放送は1994年と、私も生まれる前であるため当然リアルタイムでの視聴はしていないのだが、もう10年以上暇さえあればとりあえず『古畑任三郎』を流し、セリフも自然と覚えてしまうくらいには観ているので、その辺の古畑ファンに熱意で負ける気はしない。

 とはいえお気付きかもしれないが私は好きなものを紹介する文章が非常に下手なので(紹介文以外が上手いとも思わないけれど)、これを読んで「観てみよう!」と思う人がどれだけいるのか疑問だが、とりあえず各回の簡単なあらすじと私の好きなポイントを書いたので、暇で暇でしょうがない人は読んでほしい。暇がない人は読まなくても良いのでとにかく『古畑任三郎』を観てほしい。

 なお私はネタバレを非常に嫌うタチなので、当然この紹介でもネタバレは極力避けたいのだが、好きなポイントを書こうとするとどうしても触れなければいけない&既に作品をご存知の方とも好きなポイントを共有したいという気持ちもある。
 そのため、今回の紹介文ではネタバレになる部分は薄い色で書くようにした。古き良きインターネットの知恵である。ネタバレも問題ない方は目を凝らして見るなりドラッグして反転するなりして読んでください。(万が一背景色が濃い色になっていて意味がなければごめんなさい)

 

第1シーズン

#01「死者からの伝言」 ゲスト:中森明菜

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 若き人気少女漫画家の小石川ちなみ(中森明菜)は、担当編集者であり恋人でもあった男を別荘の倉庫に閉じ込めて殺してしまう。数日後の大雨の夜、確認のために別荘に再び戻ってきた ちなみの元に、雨宿りをさせてほしいと古畑がやってきて——

 記念すべき第一話。私が幼い頃に初めて見た『古畑任三郎』が今思えばこの回の再放送なのだが、なんだか怖い雰囲気でその時は興味を持てなかった。今改めて見てみても、全体的に画面が暗くコメディ色も薄めで、他の回と比べて雰囲気が違う。でもちゃんと観ると古畑の優しい部分が際立つ良い話。
 初回ということもあってか、トリックや推理よりも ちなみの心理描写に重きを置いたような回だが、被害者の「暗号」はシリーズ全部を通しても一番難解じゃないかと個人的には思う。握っていた原稿が示していたのは実は漫画の描かれた表ではなく裏の白紙の部分、これが意味するのは「犯人に繋がるヒントを残しても無駄」つまり「犯人は、自分の死体を一番初めに発見する人物」……被害者もなかなか頭が回らないと思いつかないダイイングメッセージである。
 またこれ以降もシリーズを通してちょくちょく名前が登場する小石川ちなみ。彼女は逮捕後、腕の良い弁護士(後のシーズンで登場する)に恵まれ軽い刑で済み、その後は結婚しアメリカで新たな人生を歩む。こんな風に過去の登場人物の後日談があるとファンは嬉しいものである。



#02「動く死体」 ゲスト:堺正章

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 歌舞伎役者の中村右近堺正章)は車で老婆をひき逃げしていた。その事実を知っている警備員の男に金を支払って口止めしていたが、罪悪感にかられた彼が自首すると言い出したため、口論となって右近は警備員を殺害してしまう。演目終了後、右近は死体をすっぽん(舞台用の昇降機)を使って舞台上へと運び、天井のすのこから転落したように偽装する。楽屋に戻ってお茶漬けを食べたあと 右近が帰ろうとしたところ、事件の捜査に来ていた古畑と遭遇し——

 1話とは打って変わって古畑の白々しく意地の悪い一面が見られる回。懐中電灯のくだりと右近の「あんにゃろぉぉぉ!」は名シーン。殺人を犯した直後という、普通ならばすぐにでも現場を立ち去りたいであろう状況でわざわざお茶漬けを食べるという奇妙な行動の理由は何なのかというのが今回の謎のひとつ。役作りの一環というのはプロ意識高いといえば高いけど……
 また古畑任三郎シリーズは、放送順と作中の時系列がバラバラになっているのだが、恐らくこの回が古畑と部下の今泉の初対面(古畑が今泉に名前を聞いている)。そう思って見ると、二人がお互いにまだどこかよそよそしい感じがしないでもない。



#03「笑える死体」 ゲスト:古手川祐子

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 精神科医・笹山アリ(古手川祐子)はかつての患者であり恋人でもあった田代が他の女と婚約したと知り、殺害を計画する。彼女は自身の誕生日に田代を自宅に招き、その際人を驚かすのが好きな田代を巧みに誘導し、頭からストッキングをかぶった田代を金属バットで撲殺する。その後証拠を隠滅し、自ら警察を呼び「強盗が現れたので正当防衛として殴った」と主張するが——

 色んな意味でシリーズ屈指の面白神回がコレ。被害者の田代もこんな姿で殺されるとは哀れである。事件の検証のため、古畑が自らストッキングを頭にかぶるシーンは伝説となっている。当時は何も思わなかったけれど、すでに大物俳優であったであろう田村正和がこんな若手芸人のような真似をするとは衝撃だっただろう。
 面白さ以外の点で言うと、古畑の慇懃無礼な態度や揚げ足取りのような話し方に対して食って掛かる犯人の態度が私は結構好きだ。



#04「殺しのファックス」 ゲスト:笑福亭鶴瓶

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 推理小説家・幡随院(笑福亭鶴瓶)は秘書との不倫が妻にバレ、離婚で揉めた結果妻を殺害する。その後妻が何者かに誘拐されたように偽装するため、自ら滞在先のホテルに警察を集め、自宅から送信予約したFAXで脅迫状や犯人からの指示を送り自分のアリバイ工作を行うが——

 FAXを使うという、時代を感じる回。予約送信機能を使った可能性くらい素人でも分かりそうなものだけど、この時代はまだメジャーじゃない機能だったのか?でもまぁ仮にそうじゃないとしても、わざわざ犯人(しかも著名人)がこんなややこしいことをするなんて思わないだろうから古畑以外の警察が特段無能ということでもないだろうけど……

 ラストで古畑に証拠を突き付けられた際の幡随院の変顔連発は「芸人が犯人なのでリアクションをギャグにした」らしく、シリーズ通してもこんな演出は他にないと思う。話には直接関係ないが、古畑の甘い→しょっぱい→甘い→しょっぱい……の無限ループが楽しい。



#05「汚れた王将」 ゲスト:坂東八十助

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 棋士の米沢八段(坂東八十助)は、今回の竜人戦で負ければ後がない窮地に立たされている。そこで米沢はどうしても勝ちたい一心で一日目の対局後封じ手に不正を行うが、それを立会人の大石に気付かれてしまう。その夜大石に不正について追及されると米沢は彼を灰皿で撲殺し、事故死に偽装する。たまたま竜人戦の会場となっているホテルに滞在していた古畑と今泉が現場検証を行うと、大石の死には不可解な点が。その翌日、偽装した封じ手を使って有利に対局を進める米沢であったが、最大のチャンスというところで飛車成りをせずに敗れてしまう。それを見た古畑は米沢への疑惑を深めるが——

 将棋というテーマに沿ってなのか、殺人そのもののトリックの解明というよりも論理で攻めて身動きを取れなくして自白させるという回。今泉が将棋研究会に入っていており将棋が指せるという意外な特技が判明する回でもある。また逆に古畑は意外と将棋が弱く、今泉との対局で負けそうになったら盤をひっくり返すという子供じみた真似をするのが笑えて印象的。
 実際の将棋の対局ではこのような不正はできないようなシステムになっているようで、クレームが入ったのか破綻しているからなのか再放送などは恐らくされておらず、あまり観たことがないのだが、結構好きな回ではある。



#06「ピアノ・レッスン」 ゲスト:木の実ナナ

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 世界的な作曲家・塩原一郎が亡くなり、音楽葬を行うことに。彼の教え子であり愛人でもあった井口薫(木の実ナナ)は、遺族から嫌われており葬儀へは参加できず、追悼曲の演奏は塩原音楽学院学長の川合が行うことに。しかし薫は、亡き塩原が築いた学院を金儲け主義で汚した川合のことが許せず、葬儀の前夜にスタンガンで殺害する。そして見事川合の代役として追悼曲の演奏を引き受けるが——

 「人に嫌われているかもと悩んでいる人、安心してください。そういう場合は大抵嫌われています。問題は自分が嫌われていることに気付かない人の方で……(要約)」というオープニングトークがなかなかドキッとする笑
 自分が恐れられ嫌われているが故に、生徒たちが弦の切れたピアノをこっそり取り替えていたということに気付かず、弾きたかった曲も弾けず殺人もバレるという、大人になってから見るとなんだか悲しい結末だなと思う。それでもラストのセリフは気高いピアニストを貫いていて今観ると結構好き。
 そして指一本で「はーるばる来たぜ函館♪」と弾くだけで「ちょっとピアノをかじったことがある」とか言っちゃう古畑が可愛い。



#07「殺人リハーサル」 ゲスト:小林稔

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 時代劇俳優の大宮十四郎(小林稔侍)は、何十年も仲間と共に作品を作ってきた愛着ある撮影所を自身の道楽のために潰そうとする二代目社長・城田の殺害を企てる。最後の撮影だからとリハーサルに城田を誘い、殺陣のシーンで大宮は模擬刀と真剣を取り違えたふりをして城田を斬殺した後事故を主張するが、古畑が計画的殺人だと疑い捜査を進めていく中で、小道具係の男が自分が模擬刀と真剣をすり替えたと自白してしまい——

 第3話と同様、過失致死ではなく計画的殺人だと立証する回。
 殺意の決め手となった「他人から見ればどうでも良いものでも本人にとっては大事なもの」というテーマは後の回でも使われている。
 きちんと逮捕しつつも「愛する仲間を守るため」という人として尊敬できるような動機の場合は、犯人に対しても敬意を払う古畑の人間性が見られるのが良い。



#08「殺人特急」 ゲスト:鹿賀丈史

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 医者の中川は自身の不倫現場を妻に雇われた探偵に撮られてしまう。離婚だけは避けたい彼は探偵を買収しようとするが、依頼人を裏切ることはできないと断られ、探偵を殺害し不倫の証拠写真を奪うことにする。特急列車の中で探偵に睡眠薬を飲ませ、探偵が眠っている間に薬物を注射して殺害するが——

 第5話で将棋の事件を解決した後、帰りの列車内で起きた事件という設定の話。古畑は5話でも話していた「酢豚弁当」を列車内で探し求めている最中に今回の犯人・中川と出会うのだが、他の回でも食べ物に執着することが多く、これまた古畑の子供っぽさが分かる回。
 謎解きとしては、正直そんなんで証明になるのか?とは思うけれど、この回に限らず『古畑任三郎』は「犯人にボロを出させて追い詰める」ことを楽しむものなので、そういう意味ではこの回は犯人と古畑の戦いが最後までドキドキして楽しめる良回。



#09「殺人公開放送」 ゲスト:石黒賢

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 超能力者としてテレビ番組で活躍する黒田清石黒賢)。実は彼には超能力などなくただのインチキなのだが、ある日川辺でトリックのタネを仕込んでいるところをたまたま通りがかった男に目撃され、黒田は男を撲殺し死体を隠す。後日、テレビ番組の収録で自身の「超能力」を披露するも次々と大学教授の神宮にトリックを暴かれ、ピンチに陥った黒田は自ら殺して隠した男の死体を超能力で発見したように振る舞い、周囲はやはり黒田の「力」は本物だと喝采する。しかしその番組の観覧に来ていた古畑は黒田の言動に違和感を覚え——

 古畑が事件現場に一切足を踏み入れず、しかも作中後半まで古畑と犯人が接触しないという珍しい回。収録を見ているだけで事件を解決する所謂「安楽椅子探偵」的作品。
 謎解きのポイントは「カラーグラスをかけていたから死体の服の色を誤認した」点で、古畑がそれを気にしている描写から視聴者はそれが決め手解決するのかと思いきや、それを突きつけられた犯人は上手いこと言ってすり抜け、本当の決め手は被害者の指紋という基本的なもの。超能力、テレビ番組の生放送収録現場という特殊な状況とのギャップが良い。



#10「矛盾だらけの死体」 ゲスト:小堺一機

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 参議院議員・鵜野の秘書を務める佐古水(小堺一機)。彼は鵜野の指示で、鵜野の愛人であるマリを大量の睡眠薬を飲ませて殺害する。しかしその後、自分を身代わりにしようという鵜野の言葉を聞いた佐古水は 鵜野を置物で殴り、マリとの心中のと見せかける偽装工作を行う。しかし実は鵜野は一命を取り留めており——

 season1の中では比較的コメディ感の強めな回。鵜野だと思ったら今泉だったというギャグは何回見ても笑える。
 犯人を追い詰める方法というのが物的証拠ではなく「二度目の犯行をおかすところを現行犯で逮捕する」というのはあまり古畑らしくない気もするが……
 ラストの「古畑さん、あなた友達少ないでしょう」のセリフが好き。



#11「さよならDJ」 ゲスト:桃井かおり

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 ラジオパーソナリティ中浦たか子(桃井かおり)は、付き人のエリ子に恋人を奪われ、ラジオの生放送収録中、曲を流している数分間の間にエリ子を殺害する。たか子は事前に自分の熱狂的ファンが送ってきたという設定の脅迫状を用意し、エリ子は自分と間違われて殺されたのだと主張するが——

 古畑任三郎シリーズ全ての中でも私が特に好きな回・犯人のひとつ。古畑に追い詰められても「で?」と気怠げに言い返す強気な態度は、子供の頃見たときはなんかウザいなと思っていたが、今見ると妙に魅力的。
 今後シリーズ通して登場する「赤い洗面器の男」の話が初登場するのがこの回なのだが、結局この「赤い洗面器の男」のオチが語られることはない……



#12「最後のあいさつ」 ゲスト:菅原文太

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 警視庁の警視・小暮は、孫娘を生原という男に殺された上、生原は証拠不十分で無罪となってしまう。そこで小暮は自ら生原に裁きを下すため、密売人を装い麻薬バイヤーに取引先を指定し、近くの安ホテルで自らそれを張り込むことでアリバイを作ると、ホテルから抜け出し、生原を射殺する——

 被害者遺族の復讐、警察組織の上下関係、麻薬取引、銃撃戦、アクション……といった他の刑事ドラマではお馴染みのテーマ・展開は古畑シリーズでは基本的にないのだが、唯一例外的な回がコレ。ギャグもこれまでに比べて少なめで、他の刑事ドラマの世界観に古畑が入りこんだかのような不思議な印象を覚える。
 その一方で、よく見ていたら視聴者も犯人の言動のどこがまずかったのかをちゃんと推理できるという点は古畑シリーズらしさがあり、第1シーズンの最終回に相応しい回だと思う。

 

  とりあえず、今回は第1シーズンのみの紹介でした。こんな文章で良さが伝わったとは思えないけれど、ドラマの良さは間違いないので是非観てほしい。
 第2、第3シリーズにも好きな回がたくさんあるのでいずれ紹介するつもりだ。

 

時限爆弾のスイッチを押してしまった

 1月末に「今年は月1回はこのブログを更新する」と書いておきながら、案の定2月は更新できずに3月もまたこんなギリギリになっている。一応2月ギリギリにも一瞬だけ投稿していたものの、文章が気に入らずにすぐに下げてしまったのだという言い訳はできるのだが、別にこんな誰に頼まれたわけでもないブログの更新を怠ったからといってなんだという話だ。

 さて、今日2021年3月28日 私は母校の大学を2年ぶりに訪問し、その帰りの電車でこの文章を打っている。なぜこんな日に大学を訪れたのか、これがなかなか奇妙な(?)話なので自分のメモとしても書き記しておこうというわけだ。ブログに書くネタもあまりないので丁度良い。いつも以上にくだらない個人的事情なので、どうしようもなく暇な方のみ読み進めることをおすすめする。

 私は大学時代 室内楽団という部活に入ってバイオリンを弾いていた。バイオリン自体は高校生の頃から始め、その頃親に買ってもらった自分のバイオリンも持っていたため、全くの初心者が多い室内楽団の中では少しばかりアドバンテージがあったはずなのだが、残念ながら飽き性と練習嫌いという最悪な性格のせいで結局在部中も全く上手くは弾けていなかった。
 卒部・卒業してからは、就職と同時に一人暮らしのマンションに引っ越したため部屋で楽器を弾くこともできず、かといって一人でレッスンに通ったり地域の楽団に入るような意欲もなく、部室から引き上げたバイオリンはケースに入れられたまま実家に置かれ、日の目を浴びることなく2年が経過した。もうすでに悪夢は始まっているなど、露とも知らずに。

 社会人になってしばらくして、そろそろ実家にあるバイオリンをメンテナンスに出して、ちょっとくらい弾いてみたいななどと思い始めていた。経験者などと言うと恥ずかしいので初心者と偽ってレッスンに通うのも良いかもしれない。そんなことを思いつつ、ある日実家に帰った際にバイオリンケースを開けてみたら、なんということだ。中には私の物とは明らかに違うバイオリンが入っているではないか!一瞬言葉を失った。こんなことってある!?

 まるで過去からの罠、開けたときに爆発する時限爆弾、玉手箱……そんな風に言ってみるとなんだか小説みたいで面白そうだが、いざ自分の身に降りかかるとそんなことも言っていられない。今まで2年以上も放置していたくせに何を今更と思われるかもしれないが、手元にあるのとないのでは大きく違うのだ。

 バイオリン自体に名前が書いているわけではないし、2年以上見ていなかったとはいえ、さすがに高校生の頃から使ってきたバイオリンを見間違うことなどない。何より、手元にあるバイオリンは本体の色や材質が一般的によく見るものよりもかなり個性的なのだ。絶対に私のバイオリンではない。一瞬パニックになりながらも冷静に考えてみる。

 私が大学を卒業したのは2年前つまり2019年3月だが、最後に自分の楽器を触ったのはもっと前だ。その更に2年前2017年の初めにはロシアに留学するため2016年の夏に同期より一足先に室内楽団を卒部したのだが、その後もしばらくは部室に楽器を置かせてもらっていたと記憶している。

 慌ててかつての部活仲間に連絡をとるが、心当たりのある人はいなかった。普通に考えて、私のようにケースを開けずにずっとしまっていたならともかく、自分の楽器を持つ人ならばきちんと見分けはつくのだ。

 室内楽団での楽器の管理だが、部員は全員自分の楽器を部室の棚に置いておくことになっている。私のように自分の楽器を持っている者は当然自分の楽器を使い、私物を持っていない者は恐らく入部した最初に備品の中から自分専用の楽器を貸与され、卒部するまで同じ楽器を使うようになっているので、他人の楽器を触ることはないのだが、4月の新入生歓迎楽器体験などでは、備品楽器を幾つか出して使っていたため、そういったときに備品と私のバイオリンが入れ替わってしまったという可能性が一番高い。備品ならばよほどのことがない限り部室に残っているはずだ。(廃棄される可能性もなくはないだろうが、さすがにそこまで状態が悪いわけではない)

 とにかく室内楽団へ連絡しなければ。幸い室内楽団には私がいた時分からSNSのアカウントがあり、そこにメールアドレスも記載されていたので、メールを送ってみると、現在部長を務めるYさんという方が対応してくれた。彼女は楽器の管理の甘さを謝罪し、私のバイオリン捜索に協力してくれると言う。学年的にYさんの管理が原因でもないので彼女を責める気はないし、そもそもこんなことは前代未聞なのだ。とはいえ私もバイオリンを取り戻さなければいけないので、Yさんと何度かやり取りをして、仕事が休みである日曜日――つまり今日――部室にお邪魔して備品を一つ一つ確認することになったのである。

 やはり最強雨女、前日までは天気が良かったのに朝からなかなか天気が悪い。誰のものかも分からないバイオリンを抱えながら傘を差しつつ2年ぶりに訪れた大学に懐かしい……という気持ちは全く起きない。自分でもびっくりした。
 正確に言うと実家から(バイオリンを取りに帰るために一旦実家に寄った)大学まで電車を乗りついで移動している間は、「あぁ、ここで乗換えるから降りなきゃ」と焦ったり「当時は駅の階段に一番近い車輛に乗るようにしてたのに、もうすっかり忘れてた」と駅のホームを長々と歩いたりと、当時のあれこれを思い出し、今風に言うと「エモい」感覚に包まれていたのだが、いざ大学の最寄り駅から正門を入り、図書館を横目に学舎の前を通って部室までの道を歩いても、「懐かしい」という感覚はまるで呼び起こされなかった。むしろ昨日一昨日も普通にここに来ていたとすら思えるのだ。

 もし仮にお世話になった先生や見知った後輩などでもいればもう少し懐かしさも感じたのかもしれないが、大学内には少なくとも私が見渡せる範囲では人っ子一人いなかった。聞けば、ついこの間卒業式が行われたばかりで、ただでさえこんな状況下で春休みで授業もなく、加えてこの天気となればわざわざ来る人などいないだろう。そんな中Yさんを呼び出してしまったことに多少の罪悪感を覚えなくもないが、こちらも必死なのである。

 懐かしさを感じることなく室内楽団の部室前で待つこと数分、Yさんがやってきた。部室の鍵を開けてもらい、備品のバイオリンケースを片っ端から開けていき、私のバイオリンを探してみる。

 結果から言うと、私のバイオリンは見つからなかった。

 私の記憶と かなり不鮮明ではあるが辛うじて撮っていた私のバイオリンの写真をもとに、Yさんには事前に幾つか特徴の似ているバイオリンをピックアップしてもらっており、コレなんじゃないかとほぼ確信しているものがあったのだが、実際に見てみると微妙に傷の位置が違ったりしていて、探し求めていた私のバイオリンではなかった。

 絶対にここにあると思っていたのに見つからないとなると、いよいよワケがわからない。誰かが故意に盗んだなどということは考えられない。これが時価数億円のストラディバリウス――とまでいかずとも、それなりに値打ちのあるものならいざ知らず、両親に買ってもらった大事なバイオリンとはいえ、バイオリンとしては平均的な価格のもので、第三者から見て盗もうと思うようなものではないはずだ。

 だとすると、やはり誰かの私物と入れ替わっている――?改めて手元にあるバイオリンを見るが、先述した通り本体の色などが備品にしてはかなり個性的だ。これも誰かの私物ではないか?もしかしたら私と同じように卒業後放置して入れ替わっていることに気付かない、時限爆弾を抱えている人がいるのかもしれない。そう思い、私とは直接面識のない後輩などにも声をかけてもらっているが、今のところ心当たりがあるという人は出てきていない。

 本当にどういうことなんだ。
 今の私には連絡を待つことしかできないのだが、それでもなお解決しなければ――探偵ナイトスクープにでも依頼するか?


6月29日追記

 このバイオリンですが、先日無事に私の手元に返ってきました。
 結局当初の予想通り現部員の一人が備品として使っていたのだが、どうやら連絡に行き違いがあり、その部員の使用している楽器(つまり私のバイオリン)をYさんが確認できていなかったようだ。その後も緊急事態宣言等で大学自体に入れずに引き渡しにここまで時間を要してしまった。
 本当に探偵ナイトスクープに応募することも考えていたのだが、採用されて見つかったとして、ラストに「見つかった記念にちょっと弾いてみて」→ヘタクソな演奏を披露→「下手くそやないかい!」的なツッコミもなく微妙な空気でチャチャチャン♪(VTR終了)→スタジオの松本人志にモヤるコメントをされてCMへ……という一連の流れを想像して憂鬱になっていたので本当に良かった。
 ご協力いただいた方、心配してくださった方、本当にありがとうございました。

コロナ時代を生きる私たち

 ついこの間 年が明けたと思ったら、もう1月が終わろうとしている。実は密かに「今年は月1回はこのブログを更新する」という目標を立てていたのだが、1月の時点でこんなギリギリになっているので達成できる気がしない。
 さて、タイトルが妙に大仰になってしまったが、過去の記事を読んでいただければ分かる通り、今回もくだらない話である。なんならコロナは殆ど関係ないので悪しからず。

 今やコロナのニュースを見聞きしない日はない。私のオフィスは大阪の大都会にあるので、去年の4月末頃から原則テレワークになり、出社は週に1回か多くて2回程度になった。他の人がどう思っているかは知らないが、私はテレワーク万歳!このまま永久に続いてほしい!と思っている。始業は8:45だが、以前なら7時前、どんなに遅くても7時半には起きて準備をしていたのが、今や8:40に起きてもPCをオンにしさえすれば何食わぬ顔で業務を開始できる。最高だ。

 プライベートの自粛生活も、外食や旅行に行きづらいなどの不満はあるものの元々インドア人間のため、さほど不自由はない。むしろ罪悪感や劣等感を覚えることなく堂々と引きこもれるため有難いくらいだと感じる2020年であった。勿論コロナ禍はおさまってほしいが、テレワークも自宅で過ごすこともこのまま続いてほしいと願っている。

 そんな私の事情はさておき、このコロナ禍は確実に後の歴史の教科書に載るだろう。そうなると、

問1(5点)
2020年頃、東アジアから全世界に拡大し、パンデミックを起こす原因となった新型ウイルスの通称を答えよ。

正解:コロナ (よくある間違い:ペスト)

などと未来のテスト問題にされることもあるだろう。
 我々からすれば「なんで700年も前に流行したペストと間違えるねん、全然違うやん!」という感じだが、28世紀くらいの学生からすれば「カタカナ3文字で似てるし、似たようなモンやろ。めんどくさいな」と思われるかもしれない。

 思えば私が生きてきた たかだか20年余りでも世界は大きく変わっているのに、教科書には「20世紀末」「21世紀初め」と言った表現でまとめられて、私の身の回りで起きた私にとっての大事件は後世の人間には全く伝えられないんだなと思うと、なんだか変な気持ちになる。

 そういえば過去にもそんな風に思ったことがあった。もう随分前の話になるが、高校生の頃塾で知り合った他校の男子生徒(仮にNとしよう)と親しくしていた。私とNは同じ世界史の授業を受けていたのだが、その世界史担当講師が面白い先生で、まるで見てきたかのように歴史のストーリーを感情豊かに語り(中にはなんと先生の迫力に泣き出す生徒までいた)、面白おかしい語呂合わせを自ら考案するだけでなく、生徒からも募集して気に入ったものは授業に取り入れたりもしたり、その他なかなか個性的でパンチの強い先生ではあったが、私を含め多くの生徒はこの先生を好いていたと思う。だがNはそんな先生の勉強法をあまり良くは思っていなかったようだ。

 ある日の世界史の授業のことだ。先生が「○○(忘れてしまったが何かの事件)が起きたのはいつか?」という質問をNにしたところ、彼は「13XX年」と正確に答えたのだが、先生は「年数まで覚えなくて良い。入試ではそこまで正確な年数を問われることなどないのだから、『14世紀』という大体の時代が分かっていれば問題ない」とNおよび他の生徒にも向けて受験テクニックを伝えた。
 その授業後にNが言ったのが「その時代を実際に生きていた人間がいるのに、〇世紀なんていう大雑把な捉え方をしたり、変な語呂合わせで覚えるのはなんかその人達に失礼な気がする」というものであった。当時は「まぁ分からんでもないけど、結局受験で解けなきゃ意味はないからさ」とテキトーに返したように記憶しており今でも私の意見自体は間違っていないと思うが、未だにこのことは妙に頭に残っている。

 先ほども書いた通り、当たり前だが自分にとっての大事件など教科書に載ることなどなく後世の人間は誰も知らない、なかったことにされてしまうのかと思うと変な気分だが、だったら逆にどんな人物なら後世にも認識されるのかと考えるとこれもなんだか不思議な気分になる。

 今は知らぬ者などいない大物芸能人や、新記録を出してヒーローとして称えられているアスリートだって、せいぜい芸能史、スポーツ史に名前を残す程度で100年も経てばよほどマニアックな人以外知らないだろう。日本人なら誰もが名前を知っているくらいの人物(例えば織田信長とかそのレベル)になるには少なくとも歴史の教科書に名前が載る必要がある。

 現時点で確実に載ると言える人間がいるとしたら総理大臣くらいだが、それだって替え歌のメロディで歴代と並べられ名前だけとりあえず覚えるという扱いにとどまるかもしれない。こういう替え歌もNに言わせれば失礼なのかもしれない。今の超有名人だってこうなのだから、私のような今ですら誰も認識していないド一般人など最初からいないことになっても致し方ない。

 しかし今は良くも悪くもネットという半永久的に証拠を残せるものがある。もしかしたら遠い未来に、この誰も読んでいないであろうブログが2020年代の名もなき女の生活を考察する材料になっているかもしれない。そんなことを妄想しながら、なんとか月に一度くらい更新できたらいいなあと思うのである。

リアルの復活を祈って

 突然だが、私は文章を書くのが結構好きである。こんな2~3人読んでくれているかどうかも怪しい上に1円の得にもならないようなブログをわざわざ書いている以上、それなりに書くことが好きでなければおかしい。この自己満足ブログを始めたのは約4年前だが、文章を書くこと自体は物心ついた頃にはもう既に好きだったんじゃないかと思う。

 小学校高学年の頃には ありがちではあるがオリジナル小説(と言いながらも流行りの児童向け小説やマンガのパクリだった)を書いていたし、中学生になってからは自己投影バリバリのキャラクターを主人公にした小説を書いていた。これは今でも思い出したら死にたくなるぐらい恥ずかしい黒歴史だ。

 しかし、このような黒歴史を製造していく中で 次第に「私が好きなのは イチから作品を作ることじゃなくて、自分に起こった出来事や自分の考えを整理して(できれば他人に面白い・読みたいと思われるように)書くことじゃない?」と気づき始めた。きっかけというほどのものでもないが、あえてきっかけと言うならば「リアル」「ダイアリー」の存在は大きいかもしれない。この言葉だけですぐに何のことか分かる方がたくさんいるとは思えないので順を追って説明する。


 私が中高校生の頃はケータイホームページの全盛期だったと思っている。私の周りでの話ではあるが、中学生の頃は主にDQNやギャル系の人たちが ホームページ作成サイトで作ったドギツイ背景色の個人サイトを毎日のように更新していた。コンテンツとしては簡単な自己紹介(かの有名な前略プロフィールとほぼ同じような内容)と、BBS、日記、プリクラを載せるギャラリー、友人のケータイサイトへのリンクが多かったと記憶している。彼らの「日記」は大抵が「今日は朝起きて飯食ってから チャリでマキん家寄ってからイオンのゲーセンで今~」というような超雑なその日の5W1Hメモのような内容だった。

 正直まっっっったく面白くなかったが、これはきっと書いている人間が私のことを読者として想定していないからだ。全世界に公開されているサイトとはいえ、全世界どころか私のような仲良くもない同級生にすら見られているという意識はなかったであろう。公開対象はあくまでも親しい友人、強いて言うならその友人の友人程度だ。そして彼らの目的は「親しい友人に自分の今日の出来事を報告すること」であって、別に面白い文章を書こうという気はさらさらなかったであろう。
 彼らの「日記」は今で言うインスタのストーリーに近いのではないか。当時インスタがあったとしたら確実にそっちを使っていただろう。

 また、カップルは「山田夫婦」「Tanaka fam」などというカップル共同のホームページを作るのも定番だった(山田や田中は勿論仮名で、大抵は男側の名字が入っていた)。内容は上記と殆ど変わらず、ただ単に管理人がカップル二人になり、ギャラリーにはカップルで撮ったプリクラばかりが投稿されていただけだ。
 強いて面白かったと言えば、カップルが破局した際にトップページに「〇月×日 ダイチとマイはお互い別々の道を進むことになりました。今まで応援してくれた皆さんありがとうございました」(名前は仮名です)などといった声明が出されることである。いや誰やねん!全ての閲覧者が画面に向かってツッコミを入れていたと思う。

 高校生になってからは、周りは品行方正な優等生ばかりで 中学時代のようなDQNはいなくなったが、そういった環境でも個人ホームページは流行していた。ただし内容は大きく変わったように思う。たかだか3年とはいえ時代が変わったこともあるのか、多くの人は同じホームページ作成サイトを使ってはいたものの、背景色やフォントを変えたり、オシャレなフリー素材を使うなどデザインにこだわる人が増え、またネットの怖さを理解しているのか そもそも撮る人が少なかったのかは分からないが、プリクラなどを公開する人は私の見る限りいなかったと思う。

 そして何より変わったのが、文章の質である。ここでようやく「リアル」「ダイアリー」の話に移る。「リアル」「ダイアリー」はどちらも管理人が自由に書く日記のようなものであるが、両者の違いとしては「リアル」は比較的短文でその日の出来事や思ったことをざっくばらんに書く場であり、多い人ではほぼ毎日投稿していた。今で言うTwitterが近いかもしれない。一方「ダイアリー」はその名の通り日記だが、更新頻度は「リアル」より格段に落ちるものの、その代わり長文を書く人が多かった。私が今こうして書いているブログと同じようなものだ。

 高校の同級生たちの「リアル」「ダイアリー」は中学の同級生らのそれと異なり、なんとなくだが他人に読ませることを意識して書いているようなものが多かったと思う。それは頭の良い人が多かったからか、単に年齢が上がったからなのかは分からないが、単にその日の出来事を書いているだけでも、大して仲良くもない知り合い程度の人の文章でも面白いと感じることが多くなった。たかが素人の高校生の自己満足エッセイとはいえ、いや素人の自己満足エッセイだからこそ、その中でも特に文章が上手いもの、面白いものは(私の中で)目立っていたし、更新が楽しみだった。

 恥ずかしながら私も例に漏れず当時「リアル」「ダイアリー」を更新していたのだが、大して仲良くなかった同級生に「あなたの『リアル』読んだんだけど面白いね」と言われたときはとても嬉しかった。別にこの言葉そのものがきっかけではないが、「私は文章を書くのが好きなんだ」と自覚したのはこの頃で、今現在に至るまで自己満足の文章をこうやって書いている。

 また当時面白い「リアル」「ダイアリー」を書くなあと思っていた同級生のうち数人は 今でも仲良くしてもらっているのだが、彼女らは社会人となった今でもTwitterなどのSNSや個人ブログも開設し、「リアル」の時代と比べると頻度は落ちるものの時々更新しており、私は密かにこれをとても楽しみにしている。彼女たちにも、もしかしたら私のような経験があるのかもしれない。

 それから大学生になり、それも卒業し社会人となった今は、あまりこういう文字書き活動をする人が(上記の友人を除き)周りからいなくなった。多くの人はインスタで写真中心にあっさりとした近況報告のようなものをしている。それはそれで勿論興味深いが、やっぱり私は他人の書いた“リアルな文章”を読むのが好きなのである。誰に宛てるわけでもなく、自己満足で思ったこと・感じたことを書く場、しかしTwitterほどリアルタイムでのとりとめのない感情の発露・独り言ではなく、ある程度推敲され整理され内心「誰かに読んでもらえてたら良いな」くらいの気持ちはある場――それが「リアル」だったように思う。懐古趣味丸出しだが、そんな「リアル」がまた見たいなと私は思っている。

電子印鑑と選択的夫婦別姓

 コロナ対策として全国的にテレワークが浸透してきた中、私の職場も今年の4月末頃からテレワークが導入され、今や1年前は毎日出勤していたことが信じられないくらいテレワークを満喫している。

 そんな中で恐らく多くの会社員がそうであるように、私も電子印鑑を利用する機会が増えた。元々電子印鑑自体はあったものの、取引先によってはきちんとしたアナログ印鑑(この言い方も変だとは思うが、まぁ伝わるだろう)でないといけないと言うところもあり、コロナ流行による在宅勤務が主流となるまではアナログ印鑑を使っていた。

 ところで私が使っている印鑑は、確か高校の卒業記念品として貰ったものだ。中学の卒業記念品も印鑑だったので、当時は正直「印鑑ばっかりいらないよ。もっと何か良いものないの?」などと思っていた。そのため、少し前に友人が「卒業記念品に印鑑はかなり有難い」という話を聞いたときは目から鱗が落ちた。というのも、彼女はかなりの珍名字なのだ。

 以前にも書いた通り、私の名字は全国ベスト50に入り、学年に一人はいるような超メジャー名字だ。大抵の人はそうだろうが、このようなメジャー名字の人間にとって印鑑の入手は非常に容易い。よほど良い物やこだわった物を求めない限りは、その辺の100円ショップででも簡単に手に入る。印鑑が必要なのを忘れて出先で買ったこともあるくらいだ。

 しかし、珍名字の人間にとっての印鑑はなかなかハードルが高い。その辺の店のあのくるくる回るシャチハタコーナーではまず見つけられず オーダーするしかない。当然私のようなメジャー名字よりも時間もお金もかかる。なくしてしまった場合のダメージも大きい。そう思うと、確かにタダでちょっと良い印鑑を貰えるのは有難いことだろう。

 他にも珍名字の方は、初見ではなかなか読んでもらえない、口頭で読みを説明するのが難しい、なんか目立って嫌、そもそも名字として認識してもらえない……などなど平凡名字にはまるでない苦労をしている。

 記念品の印鑑に喜んでいた彼女の珍名字エピソードで面白かったのは、飲食店で順番待ちの紙に名前を書く時は適当な偽名を使っているということだ。そんなこと考えたこともなかったけれど、確かに店員にすっと読んで(呼んで)もらえないと面倒だし、他の客に変に注目される心配もある。実際私もそういう場で変わった名字を見つけたら「〇〇さんだって!どういう字を書くんだろう」などと思ってしまう。

 そういえばM-1グランプリ2016王者である銀シャリの鰻さんも、本名が鰻という珍しい名字で、幼い頃 家族が飲食店で「ナカニシ」という偽名を使って順番待ちをしていたという話を漫才の中でしていた。これは結構な珍名字あるあるなのだろう。

 偶然にも友人の名字も鰻さん同様 読みが生き物の名称だ。厳密に言えば彼女の方は漢字がそのままではないので、「鰻」よりも「八木(やぎ)」や「加茂(かも)」のレア版といった方が近いかもしれないが。

 そんな珍名字の彼女の苦労といえばもう一つ大きなものがある。それが結婚に伴う改姓問題だ。
 私を含め友人たちは彼女を「名字+ちゃん」など名字派生の呼び方をしているが、もし彼女が結婚して改姓したらもう「名字+ちゃん」ではなくなるのだ。いや別に友人同士なのだから旧姓で呼んではいけないわけでもないし、本人が気にならないなら口出しをする権利など全くない。しかし彼女本人もその名字にちなんだアイテムを持っていたりと、自身の名字をアイデンティティの1つとしていたように思うし、過去に「親族以外でこの名字の人を見たことがないので なるべくこの名字を残したい」とも言っていたのを記憶している。他人ながら珍名字に憧れている人間としても、たとえば彼女が私のようなメジャー名字になるなら「なんてもったいない!」などと思ってしまう。

 ここからちょっと真面目(?)な話になるが、選択的夫婦別姓制度の導入については昨今よく話題になっている。恥ずかしながら私は政治的ニュースに疎いのだが、このような自分も近い将来関係するかもしれない問題については無関心ではいられない。とはいえ、SNSで個人(知人も赤の他人も有名人も一般人も)の意見を眺める程度なのだが。
 私はというと、選択的夫婦別姓制度100%賛成派だ。慣れ親しんだ名字を変えたくない、改姓手続きが面倒、名字が変わることでこれまでの仕事や研究の実績がなくなってしまう可能性があるなど、改姓に伴うデメリットを解消できる。

 一方で反対派の意見もSNSでは見るが、自分が賛成派だからフラットな目線で見られていないというのもあるかもしれないが、賛成派が実生活での不便の解消を理由にしているのに対して、反対派の理由はあまりにふわっとしたものが多いように思う。

 反対派の意見で(この問題に関するニュース記事についたコメントをざっと見る感じでは)一番よく見るのは「同じ名字でないと家族の一体感がなくなる」といったものである。

 確かに同じ名字の方が一体感・連帯感はあるように見えるかもしれないが、そんなの個人(個家族)の感覚次第では……そのための「選択的」なのだから「うちは改姓に特に負担を感じないし、一体感が欲しいから同姓!」で良いと思う。そもそも外国の別姓家庭が全て不仲かといえばそんなわけないし、反対に同姓で不仲な家庭など日本でもごまんとあるではないか。

 あとは「子供が可哀想」というもの。「子供の名字がややこしいことになる」はまだ分からなくもないけど、「可哀想」ってどういう理屈なんだろう。純粋に謎。仮に生まれた家庭が別姓夫婦なら「うちはそういうもの」程度の感覚だと思う。「世の中には朝ごはんが白ご飯派もいるみたいだけど、うちは食パン派の家なんだな」みたいな。ちょっと違うか。
 「両親が別姓でいじめられる」的な意見も見るが、実際クラスメートの親の名字なんか気にしたことあるだろうか?私はない。そしてこれも先と同様に「うちの親は同姓だけど、〇〇ちゃんのとこは別姓なんだねーへー」で終わると思う。子供なんてそんなもんじゃないの。

 そして反対派は見た感じでは、やはりというかなんというか男性が多い印象だ。(実際は男性側が改姓することも勿論可能だが)圧倒的に女性側が改姓することが多く、それが当たり前だと思っている男性が多いからなんだろうか。

 また「結婚して夫の姓で呼ばれることに喜びを感じるのが女」というようなウヘェな発言もよく聞く。勝手に他人の幸せ決めんなよ……その辺のオッサンが言っているだけならまだ良いが(それでもキモイことには違いない)、メディアにも出るような有名人もこのような発言をしていて驚いた。案の定総ツッコミだったのが幸いだが、政治家のオッサンにもこのような考えの人が多いんだろうなと思うとしんどい。
 ちょっとズレるが「俺の名字あげるよ」みたいなプロポーズ台詞がイカしてると思っている男性がいたら、やめといた方が無難だ。最悪それが原因で別れる可能性すらある問題だと思っている。

 私個人はと言うと、自分の平凡な名字にそれほど執着があるわけではなく、未だに珍しい名字やカッコいい名字に憧れている。そのため 今のところ何の予定があるわけでもないが、結婚相手が例えば有栖川さんや西園寺さんだったら喜んで改姓したい。しかし山田さんや田中さんだったら……手間と労力をかけてまで、今と同レベルかそれ以下の平凡名字にわざわざ変えたくはない(全国の山田さん田中さん申し訳ありません)。仮にどれだけ愛していても相手が山田さんだったら 私は別姓を望むだろう。子供を作るつもりはないので子供の名字云々は無関係だが、仮に子供を持つとしても先ほど書いた通り「うちは食パン派だよ」で済ませるだろう。

 私はこんなテキトーな考えだが、しかし絶対に同姓!絶対に別姓!という人よりも、私のような意見の人が多数なのではないかと勝手に思っている。そんな人のための「選択的」夫婦別姓制度じゃないのか。何故今の「強制的」夫婦同姓にこだわるのか…………

 もうめんどくさくなってきた、もういっそ国民全員に適当な数字とかを割り振って、名前はもう何でも自分が必要に応じて好きなのを名乗って生活できるようにしてみたらどうか。そうしたら私は「国民番号304958610XXXXX 西園寺麗華」として生きるよ。