ОГУРЕЦ

キュウリ美味しいね。

コロナ時代を生きる私たち

 ついこの間 年が明けたと思ったら、もう1月が終わろうとしている。実は密かに「今年は月1回はこのブログを更新する」という目標を立てていたのだが、1月の時点でこんなギリギリになっているので達成できる気がしない。
 さて、タイトルが妙に大仰になってしまったが、過去の記事を読んでいただければ分かる通り、今回もくだらない話である。なんならコロナは殆ど関係ないので悪しからず。

 今やコロナのニュースを見聞きしない日はない。私のオフィスは大阪の大都会にあるので、去年の4月末頃から原則テレワークになり、出社は週に1回か多くて2回程度になった。他の人がどう思っているかは知らないが、私はテレワーク万歳!このまま永久に続いてほしい!と思っている。始業は8:45だが、以前なら7時前、どんなに遅くても7時半には起きて準備をしていたのが、今や8:40に起きてもPCをオンにしさえすれば何食わぬ顔で業務を開始できる。最高だ。

 プライベートの自粛生活も、外食や旅行に行きづらいなどの不満はあるものの元々インドア人間のため、さほど不自由はない。むしろ罪悪感や劣等感を覚えることなく堂々と引きこもれるため有難いくらいだと感じる2020年であった。勿論コロナ禍はおさまってほしいが、テレワークも自宅で過ごすこともこのまま続いてほしいと願っている。

 そんな私の事情はさておき、このコロナ禍は確実に後の歴史の教科書に載るだろう。そうなると、

問1(5点)
2020年頃、東アジアから全世界に拡大し、パンデミックを起こす原因となった新型ウイルスの通称を答えよ。

正解:コロナ (よくある間違い:ペスト)

などと未来のテスト問題にされることもあるだろう。
 我々からすれば「なんで700年も前に流行したペストと間違えるねん、全然違うやん!」という感じだが、28世紀くらいの学生からすれば「カタカナ3文字で似てるし、似たようなモンやろ。めんどくさいな」と思われるかもしれない。

 思えば私が生きてきた たかだか20年余りでも世界は大きく変わっているのに、教科書には「20世紀末」「21世紀初め」と言った表現でまとめられて、私の身の回りで起きた私にとっての大事件は後世の人間には全く伝えられないんだなと思うと、なんだか変な気持ちになる。

 そういえば過去にもそんな風に思ったことがあった。もう随分前の話になるが、高校生の頃塾で知り合った他校の男子生徒(仮にNとしよう)と親しくしていた。私とNは同じ世界史の授業を受けていたのだが、その世界史担当講師が面白い先生で、まるで見てきたかのように歴史のストーリーを感情豊かに語り(中にはなんと先生の迫力に泣き出す生徒までいた)、面白おかしい語呂合わせを自ら考案するだけでなく、生徒からも募集して気に入ったものは授業に取り入れたりもしたり、その他なかなか個性的でパンチの強い先生ではあったが、私を含め多くの生徒はこの先生を好いていたと思う。だがNはそんな先生の勉強法をあまり良くは思っていなかったようだ。

 ある日の世界史の授業のことだ。先生が「○○(忘れてしまったが何かの事件)が起きたのはいつか?」という質問をNにしたところ、彼は「13XX年」と正確に答えたのだが、先生は「年数まで覚えなくて良い。入試ではそこまで正確な年数を問われることなどないのだから、『14世紀』という大体の時代が分かっていれば問題ない」とNおよび他の生徒にも向けて受験テクニックを伝えた。
 その授業後にNが言ったのが「その時代を実際に生きていた人間がいるのに、〇世紀なんていう大雑把な捉え方をしたり、変な語呂合わせで覚えるのはなんかその人達に失礼な気がする」というものであった。当時は「まぁ分からんでもないけど、結局受験で解けなきゃ意味はないからさ」とテキトーに返したように記憶しており今でも私の意見自体は間違っていないと思うが、未だにこのことは妙に頭に残っている。

 先ほども書いた通り、当たり前だが自分にとっての大事件など教科書に載ることなどなく後世の人間は誰も知らない、なかったことにされてしまうのかと思うと変な気分だが、だったら逆にどんな人物なら後世にも認識されるのかと考えるとこれもなんだか不思議な気分になる。

 今は知らぬ者などいない大物芸能人や、新記録を出してヒーローとして称えられているアスリートだって、せいぜい芸能史、スポーツ史に名前を残す程度で100年も経てばよほどマニアックな人以外知らないだろう。日本人なら誰もが名前を知っているくらいの人物(例えば織田信長とかそのレベル)になるには少なくとも歴史の教科書に名前が載る必要がある。

 現時点で確実に載ると言える人間がいるとしたら総理大臣くらいだが、それだって替え歌のメロディで歴代と並べられ名前だけとりあえず覚えるという扱いにとどまるかもしれない。こういう替え歌もNに言わせれば失礼なのかもしれない。今の超有名人だってこうなのだから、私のような今ですら誰も認識していないド一般人など最初からいないことになっても致し方ない。

 しかし今は良くも悪くもネットという半永久的に証拠を残せるものがある。もしかしたら遠い未来に、この誰も読んでいないであろうブログが2020年代の名もなき女の生活を考察する材料になっているかもしれない。そんなことを妄想しながら、なんとか月に一度くらい更新できたらいいなあと思うのである。