ОГУРЕЦ

キュウリ美味しいね。

A学園よ、永遠に

部屋の学習机の抽斗を開けると、五~六冊のノートが出てきた。未使用のまっさらなノート。表紙にはレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』や葛飾北斎の『富嶽三十六景』といった名画がプリントされている。

私がこのノートを手に入れたのは小学校高学年から中学校を卒業するまで通っていた学習塾だ。塾というとスーツを着た真面目そうな先生が教え、生徒もそれなりに勉強に意欲のある子供というイメージがあるが、私が通っていた塾は今思えば少し特殊なところだった。

私が通っていた塾、A学園は一学年20人程度(小学生のときは10人くらいだった)の個人経営のゆるい集団塾だった。
一応月に一回ある塾内テストの結果で、座席は1位から順に前から指定されたりはしたが、世間の「受験命!」みたいな進学塾と比べるとかなりのんびりしたところだったと言える。生徒はピンキリで、後に東大や京大に進むような秀才から とりあえず高校には進学させたいと親に入塾させられたようなヤンキーまで様々だった。
因みに私は当時ぶっちぎりのピンの方(ピンキリのピンとキリってどっちが良いんだろう?)で、常に1~3位くらいの席をウロウロしていたが、今となっては見る影もない。

先生は二人いたが、その一人はおじいちゃんだった。私が通っていた時点で既に70代だったと思う。そしてこのおじいちゃん先生の通称はミスター。ちなみに歴とした日本人だ。ミスターは齢70にしては元気で、一度塾生みんなを連れてUSJに行ったことさえあった。

またミスターはお茶目な老人で、生徒にはそれぞれテキトーなあだ名を付けて呼んでいた。「三木」という名字の生徒が三人いたが、それぞれミッキーマウスミッキーカーチス、ミッキールーニーと呼ばれていた。ちなみに私は同じ名字の歴史上の人物の名で呼ばれていた。大抵はそんな感じの名付けだったが、入塾して間もない、髪をスプレーでガチガチに固めて尖らせた、学校でも無口でクールな男子生徒を「ライオン丸」と呼んだときは思わずみんなが笑った。

そんなミスターの授業スタイルは、基本的には学校のそれとあまり変わらなかった。教科書を読んで説明しながら生徒を当てる。ただ説明や当て方が独特だった。説明する際に自作の妙な替え歌(年が年なので誰も知らないような選曲で、後に「懐かしのヒットソング」などの番組で原曲を聴いてこれは!と思ったものだ)をしてみたり、あまり面白くないダジャレを連発していた。

また生徒に質問するときは、竹刀を生徒の頭の上にかざし、不正解だと頭をコツンとしていた。当時も教師の体罰などは問題になっていたが、「コツン」は全く痛くなかったし、それが嫌な生徒や親はすぐに塾をやめただろう。もっとも私は大体きちんと答えられていたので「コツン」を受けたことは ほぼないのだが。
しかし、なんだかんだで塾生はこのミスターの授業のおかげで覚えられていたし、なんだかんだでミスターは好かれていた。前述したUSJ旅行にも多くの塾生が参加したし、バレンタインにチョコレートを渡す女子生徒もいた。

先生はもう一人いて、ジュニアと呼ばれていた。ジュニアはミスターの息子で、当時40代くらいのおじさんだった。
ジュニアの授業は、ミスターと比べると真面目で、生徒の多くはミスター派だったようだが、私はジュニアの方が好きだった。
その理由はジュニアがたまに開催するクイズ大会だった。
クイズ大会といっても大それたものではない。ジュニアは授業時間が少し余ると雑学クイズや難読漢字クイズ、「○○(部首)の漢字をできるだけたくさん書け」「花の名前をたくさん書け」……というようなちょっとしたゲームをやっていた。

こうしたゲームに対して私は普段のテスト以上に真剣で、ほぼ全てで優勝(と言うほどのものでもないが)していた。その賞品のひとつがはじめに書いた名画ノートである。名画ノートは賞品の中では一番良いもので、他にも鉛筆や消しゴムといった事務用品の余り物としか思えないものもたくさん貰った。
この余り物もとい賞品は 授業を行う教室の隣にある小さな事務室にあったもので、ミスターがよくその事務室でタバコを吸っていたため、賞品にもほんのりタバコの匂いがついていた。

そんな賞品と言えないレベルの賞品だったが、モノが欲しいわけではなくゲームに勝ちたいだけの私は 勝者の証であるタバコの匂いつき文房具を嬉しそうに受け取っていた。今にして思えば、私がほぼ常に優勝できたのは、そんな余り物しか貰えないのに必死になるのは馬鹿馬鹿しいと他の生徒たちは思っていたからかもしれない。
賞品になりそうな物が(余り物の文房具すら)ないときは、引換券を貰った。その引換券にはミスターの似顔絵が描かれていた。自分で描いたのか、あるいは過去に塾生が描いたのかは分からないが、なかなか上手く特徴をとらえている。

私は中学卒業と同時にA学園も卒業したが、入れ替わりで3つ下の妹が入塾した。ミスターとジュニアは時々妹に「お姉ちゃんは元気か?」とたずねていたらしい。そういえば私が塾生だったときも、「お兄ちゃんは元気か?」と訊かれていた生徒が何人かいた。A学園は地元のこぢんまりした塾ではあったが、地味に進学実績が良く、きょうだいで通っている家庭も多かったのだ。

そんなA学園が看板を下ろしたと知ったのはつい最近のことだ。妹が卒業してからはA学園との接点はなく、情報も聞かなかったのだが、数年前にミスターは亡くなり、ジュニア一人でしばらくやっていたものの手が回らず、ジュニアの息子(私の高校のひとつ下の後輩だった)も手伝っていたようだが、結局塾は畳んでしまったらしい。
最近A学園の教室があったビルの前を通ると、テナント募集の貼り紙があった。

私はA学園や先生が大好き!というわけではなく、どちらかと言うと冷めている方ではあったが、それでも5年間通った塾がなくなったというのはなんとなく物悲しい。何よりあんなに元気だったミスターがもういないということにあまり実感が湧かない。悲しいわけではないが、不思議な気分だ。

改めて例のノートを並べて、眺めてみる。ミスターのタバコの匂いは10年近く経った今ではさすがに消えていた。